• 33.VIN

Domaine Claude Dugat / Domaine du Comte Liger Belair


Domaine Claude Dugat

Gevrey Chambertin

バッカスに愛される生産者


ジュヴレイ・シャンベルタンに住む人たちは、デュガ家を指して「理想的な家族だ」という。現当主であるクロード・デュガと妻マリー・テレーズは日々ブドウ畑に出て、精魂込めて仕事をする。その背を見て育った3人の子供たちは、ごく自然にワイン造りの世界に身を置くことを決め、ドメーヌを分割するような複雑な諍いもない。


そしてドメーヌにヴィジットすると、聖人のような笑みをたたえたクロードがドメーヌの玄関で待っている。その一連の流れは、ワイン造りの原点を感じるものだ。もしワインの神バッカスが存在するならば、間違いなくクロードは、バッカスにより選ばれ、愛されている生産者だろう。そのクロードも今は引退を見据えている。



デュガ家の歴史は19世紀初頭に遡る。ブルゴーニュの運河建設のためにオーヴェルニュからやって来たアネ・デュガが、気晴らしにブドウ収穫を手伝ったのがきっかけだ。

アネは県会議員の妹と恋に落ち、ブルゴーニュに安着することを決意する。オーヴェルニュ地方の人は勤勉なことで有名だ。勤勉であっただろうアネと、その恋物語がなければ、今日のデュガは存在しない。



6代目となるクロードは、ヴィニュロンとしての半生を振り返る。

「子供の頃からドメーヌを手伝っていたので、いつから働いてきたか定かではありません。また最初はとくにこの仕事を好きとは思わなかったので、自らこの職業を選んだという自覚があまりない。でも転機を挙げるなら88年でしょうか。この年から除草剤や化学肥料の使用を止めました。まだ収穫されるブドウをすべて自社瓶詰めしていた時代ではありませんが、メゾン・ルロワにワインを売っていた経緯などから、原材料であるブドウを最高の品質にしようと強く意識しました。醸造の手法は90年代からほとんど変わっていませんが、栽培はより精緻になっていると思います」。



その栽培では、畑やブドウに親切に接することが重要だという。

「畑は正直です。時間はかかるが、親切に接するとブドウ樹やブドウの振る舞いは変わってくる。はるか昔はプルミエ・クリュやグラン・クリュもすべて混ぜて造っていましたが、真摯な畑仕事があってこそ、ブルゴーニュの微細なテロワールのニュアンスは生まれます」。99年からは、主要な区画において自身で飼う馬での耕作も実践。「馬での耕作はまだ珍しいから、近所の子供たちも畑で馬と遊んでいますよ。畑の風景が子供たちの記憶に残るなら、嬉しいです」と微笑む。



1956年生まれのクロードは、引退を見据えている。

「数年後にはドメーヌの名前からクロードを外すかもしれません。どんな名前にするかは3人の子供たちが決めること。祖父や父の代から培われたエスプリは寛容さです。バタバタとするのではなく、このエスプリをゆっくりと子供たちに引き継ぐ時間がある私は幸せですね。引退後は、後ろからデュガというひとつの家族を見守っていきたいですね」。



今年58歳というクロードは、愛好家から見れば引退には早すぎる。しかし一線を退く判断をくだすのは、愛好家ではなくひとりの生産者自身。デュガ家の世代交代にも注目したい。





Domaine du Comte Liger Belair

Vosne Romanée

今まさに、昇り龍


ヴォーヌ・ロマネの特色は、8つのグラン・クリュの中で、4つをモノポールが占めるということ。


そのひとつは、コント・リジェ・ベレールが所有するラ・ロマネだ。しかしラ・ロマネは1992年にグラン・クリュへ昇格したラ・グランド・リュと同様に、いまひとつ垢抜けないモノポールとしてみなされていた。ラ・ロマネの本格的なてこ入れが始まったのは、2002年に耕作契約が終わり、晴れて所有者となったルイ・ミシェル・リジェ・ベレールの努力によるもの。人目につく立地にありながら前世紀は乾いた表土を晒していたラ・ロマネは、手ですくい上げたくなるようなフカフカの土壌に生まれ変わった。ルイ・ミシェルが目指しているものは何なのか。



私がこのドメーヌのことを知ったのは、2002年にパリのワインショップで店員から聞いた話、「ヴォーヌ・ロマネにとてもビオな男子が現れた。ラ・ロマネも馬で耕作しているんだ」だった。当時の私にとってラ・ロマネとは「中途半端に価格は高いが、けっして心を揺さぶられない畑」くらいにしか思っておらず、また今日ほどヴォーヌ・ロマネの地価が高騰していなかったとはいえ、彗星のごとくヴォーヌ・ロマネのグラン・クリュを手がける無名の人間がいるのだろうか。さっそくドメーヌをヴィジットすると、真っ赤なセーターを着たルイ・ミシェルが応対してくれた。



ルイ・ミシェルの話は19世紀初頭にまで遡る、リジェ・ベレール家の壮大なヴォーヌ・ロマネ物語だったが、要するに2000年よりネゴシアンであるブシャール・ペール・エ・フォスとの耕作契約が終了したものから、ルイ・ミシェルがワイン造りを手がけているということだ。02年当時は、「ビオではないけれど、過去40年で土壌が疲労していると感じた。土壌が再生しないと、ピノノワールというモノセパージュでテロワールは表現できない。ビオ以前に畑を耕すことが必要なんだ」と語った。



その後ヴィジットを重ねる度に、畑はビオへと変換していくが、その理由は「農薬の毒性を考えた。消費者のためではなく、畑で働く人への安全性が心配だった。使用するひとつひとつの農薬の毒性を検証するよりも、止めていく方法を考えていく方が、私にとっては簡単だったから」。

よくビオは環境や消費者のためと言われるが、農薬の毒性をもっとも恐れているのは畑で働いている当人だ。物事はプラスのスパイラルに入ることがある。結果としてビオとなった畑から収穫されるブドウに、ルイ・ミシェルは手応えを感じている。



「私は宝石のような畑を手がけるチャンスに恵まれている。グラン・ヴァンとは、偉大であるか否か。その間は存在しない。標準的なワインを造って守りに入るという考えはまったくなく、可能性を追求したい」と明言する。カーヴにヴィジットし、毎年試飲を繰り返しているが、ワインの品質の変化には目を見張るものがある。畑毎のマチエールやテクスチャーが明確で、偉大になるべく方向付けられた風格がある。



いつヴィジットしても、ルイ・ミシェルは赤いズボンをはいている。赤はエネルギッシュで有言実行の彼によく似合う。今後の展開から目が離せない。


Text : Akiyo HORI

Photo : Hiroki Tagma

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